お爺さん「戦争でね」 私「(あれ?なんか聞いたことあるな)この人しってますか?」 お爺さん「そうか…あの人のお孫さんか」

sk2ch
最近(今更)知った衝撃の事実
897: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:18:50.39 ID:0j4BB6Gx
上の方に戦争関係の話題があったので私も

仕事でどうしようもないミスをしてしまい、次の日に仕事に行きたくないってふさぎこんでた時。
家に帰りたくなくて、いつもは乗らない電車に乗って他県まで行ってみたんだ。

そこは2chとかでは戦闘民族がいるとか未開の地だとかふざけて虚飾されていたりするんだけど、そこの大き目の駅で降りてお腹がすいていたので飲み屋っぽいところに入った。

サンマ定食とビールを頼んでぼんやりと俯いていると、臨席のおじいさんに話しかけられた。
ずいぶんと負のオーラがでてた自分が心配だったそうだ。

白髪で薄い髪だったが、左目の下に大きな古傷が印象のそのおじいさんに言っても仕方ないと思いつつ、聞いてもらえるのが嬉しくてべらべら愚痴ってしまった。
しまいには嗚咽交じりになってしまった自分の背中をさすってくれて、私が泣き止むとウーロン茶をご馳走してくれた。
その時こう言ってくれたんだ。

「私が君くらいの時は戦争があったから仕事の悩みなんてなかった。でも恐い上司はいたよ(笑)それと大事な部下もね。君が悩んでいるのは仕事に真剣に取り組んでいるからなんだ、その事を自信に持って欲しい。いつか君が部下を持ったときに君が守ってあげられるよう、今はつらいが挫けてはいけないよ」

それから戦時中の話(陸軍の小隊長としてビルマというところで戦っていたそうだ)をしてくれて、地雷原を突破する時にもう絶対ダメだと思ったこと、それでも生き残れたことを静かに語ってくれた。
私は自分が修羅場だと思ってた事と地雷と弾丸の嵐の中を走れといわれた事とを比べて恥ずかしくなったよ。

でもそれに加えて、この話をどこかで聞いたことがあるなと思ったんだ。
それは多分同じく戦争体験者の祖父の話(後出しですが祖父も私たち家族と一緒に暮らしています)
それで聞いてみたんだ、○川○○(祖父の名前)という名前に聞き覚えはありませんかと

それまでおっとりしていたおじいさんの背筋が延びたかと思うと、私の顔をマジマジと見て「○川○○、上等兵。小銃の扱いに関して天才だった」と。

私は驚いたが何とか孫である事を伝え、祖父が酔うと話してくれた戦争の話を話した。
それでこのおじいさんとの話にずいぶん食い違いがあってさ。

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PickUp!

897: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:18:50.39 ID:0j4BB6Gx
・祖父の話
要約すると戦地で足とお腹?を打たれて仲間におぶってもらってやっとのことで帰ってきた

・おじいさん(祖父の所属していた隊の小隊長)の話
祖父は小銃射撃の名手でいつも危険な場面を真っ先に志願していた
ビルマ戦線で退却中に地雷地帯に迷い込んでしまい、退却速度ががた落ちになってしまった
その時に最後尾で敵を食い止めたのが私の祖父だが、その最中に銃弾を足と腹に受けてしまった。
おじいさんたちは地雷の除去?で安全地帯を作ったあと祖父を省みたが倒れてて苦しんでいたそう。
 
助けに戻ろうとした時に祖父が「俺はここまでです、一発で(頭か心臓を撃ってくれの意)お願いします(当時の日本軍人は捕虜になることが死ぬことより恥だった)」と頼んだそう
でもおじいさんはそんな祖父を見捨てずに地雷原の中に戻って祖父をおぶって逃げてくれた。

祖父に聞いたときは、なんてドジなじいちゃんなんだろ助かってよかったなぁと思ってたのに、こんな真相だったとはえらい衝撃でした。

祖父ばかりか孫の私までこのおじいさんに救っていただいて本当の意味で恩人です。
このたび祖父と小隊長であるおじいさんが再会して、お酒を飲むことができたので記念にカキコ。
長文失礼しました。

898: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:44:05.30 ID:0wPib/7k
すごい話だ…
もう戦争経験者はみんな高齢で亡くなっている方も多いし、戦友でもどこでどうしてるか分からない人だって多いだろうから、偶然飲み屋で隣になったおじいさんが…なんて本当に奇跡みたいだわ

どちらのおじいさんもとても素晴らしい人だね

899: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 03:56:53.03 ID:RjwuEcFZ
こういう話を聞くと運命ってあるのかなと思うね
おじいちゃん達に乾杯

911: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 10:40:16.83 ID:Dz+eIhVf
私の背筋も伸びたことをご報告

918: 彼氏いない歴774年 2012/11/22(木) 12:59:59.26 ID:8eNtQi1A
うちの祖父もビルマで戦ってたんだ
もしかしたら似たような部隊だったのかな
生きて帰れたのが奇跡みたいだって言ってるよ

sk2ch: 突然ですがおすすめの記事を紹介します

みんなの反応

1:すかっと名無しさん 2016-04-14 19:48:17 ID:MjkxNjYzO
ええはなしやー
2:すかっと名無しさん 2016-04-14 19:49:13 ID:NDI5Nzg2M
全編くまなく松本零士の絵柄で再生。
姿勢正して背筋が伸びたであります(*`・ω・)ゞ
3:すかっと名無しさん 2016-04-14 19:52:59 ID:MzYxMjU2O
何でかな目から汁が…
4:すかっと名無しさん 2016-04-14 19:54:03 ID:MjY5MzAxN
戦友って特別な存在だね。
それと奇跡の再会!
悪い事・良い事、色んな事が繋がっているんだね。
5:すかっと名無しさん 2016-04-14 19:59:00 ID:NTE5ODgwM
ビルマ帰りのじい様数人に体験を聞いたけどすさまじかったなあ。1人は日本に帰ってこれた日のことをつぶさに覚えてて語ってくれた。いずれも故人。
6:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:00:15 ID:Mjg2NzE0M
いつもはここではふざけたコメばかりしちゃうけど、今回は真面目にコメしてみようかな。

祖父の話を流さずにちゃんと聞いていたからこそこの出会いが活きたんだよ。
小隊長おじいさんの“教え”もきっと将来役立たせられるだろうさ!
偉大なる先達お二人の数十年を経た再会で酌み交わされた酒と健康に、乾杯!!
7:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:05:43 ID:NDc4MDY0N
∠( ̄^ ̄)
8:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:19:46 ID:Mjg3NzkxM
私の祖父もビルマの激戦で亡くなったんだ。
祖母は当事生後3ヶ月の母をずっと一人で育て
先月101歳で祖父の元へ旅立ちました。
短い結婚生活だったから、今頃あちらで仲良く過ごしてくれてるといいなあ
9:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:27:51 ID:NDk0ODExM
(`・ω・´)ゞ
俺の死んだジ様は衛生兵。
草刈り鎌と紙の靴を渡されて日本海側に配備されて終戦を迎えたそうな。
10:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:48:29 ID:MTM5MzYzM
戦争経験者って孫相手には絶対辛い話はしないよね
どちらかと言えばおちゃらけて話すぐらい。

ただ、悩んでいるときがあったとき
命のやり取りで判断に困ったあと、悩んだ話だけするよね
11:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:50:22 ID:NDI5Nzc2N
ウチのジーさんは、戦争には行かず、軍需工場で働いてたらしい。当然、空襲を受けて、脚に凄い火傷を負ったらしい。
家に帰ったが、医者の薬は効かず、当時居た3人の妹さんたちが髪の毛切って、油で煮て、それを薬にしたら快癒したらしい。
らしいばっかでスマソ。
12:すかっと名無しさん 2016-04-14 20:52:13 ID:MzYxMzYxN
自分の知人は飛行機乗りだったそうな。
たくさんの同胞が特攻隊で散っていったと聞いた。
その話をしてくれた知人も去年亡くなった。
あちらで再会してくれていると思いたい。
13:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:02:02 ID:NTE1OTA0M
英霊とご健在の勇者に(`・ω・)ゞ
14:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:07:10 ID:Mjk3MTQ3N
うちのじい様は船大工でした。幸いにも前線にでて戦うことはなかったよ。
船大工は元気なもんで、若い頃は電柱が無いからってことで山から木を切り取って担いで持ってきたり、70過ぎのくせに家を自力で増築するとかパワフルです。
15:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:21:48 ID:MzA0NTE2N
運命の女神「おじいちゃん達の再会のお手伝いさせただけで報告主ちゃんの為じゃないんだからねっ!」ドヤァ
16:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:24:28 ID:Mjk0NTQ2M
うちの祖父は海軍だった。
祖母はマントが格好良くてって言ってたな。
私が生まれる前に死んじゃったよ。
17:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:30:40 ID:Mjc5MzYzN
亡くなった母方の祖父が陸軍の書記官で、東京裁判の証言台に立ったとか。
被告人席に東条英機がいたっていう話をよく聞いてたなぁ。
18:すかっと名無しさん 2016-04-14 21:46:39 ID:NjQ2NDQ1N
私の祖父は理由があって歳を偽って13歳と8か月で入隊したのがバレて上官にしこたま凹られたらしいわ
銃器を一切持たされず訓練も参加許されず鍬と釡で畑仕事だけさせられたって
何度も戦地に行くために来たんですって直訴したけど聞く耳持たずで畑へGO
どうして訓練さえも参加できなかったのか今ならわかるって
「お前ら子どもは生きて帰れ 武器なんぞもつな 生きる糧を作って人を生かせ」って事だったんだろうって
お盆の頃になると唯一もっている当時の友たちの写真を見ながらシミジミ呟いてた
19:すかっと名無しさん 2016-04-14 22:17:23 ID:MjkwOTQyN
子供の頃、知らないおじいさんがお客に来てて、誰か聞いたらじいちゃんの戦友だと聞いた。
弾丸だかなんだかの運搬係だったと言ってたけど、詳しくは聞かなかった。聞いちゃ悪いような気がして。
大っ嫌いだった祖父だけど、戦争の話はきちんと聞いておけば良かったな。10年前、92で逝った。
20:すかっと名無しさん 2016-04-14 22:27:03 ID:NDk1MDYyM
地震で泣いてる大分県民の私も背筋が伸びたよ!
熊本県民さん、大丈夫かい!?
21:すかっと名無しさん 2016-04-14 22:35:41 ID:MzYxMTExO
おや?今日は雨か…
22:すかっと名無しさん 2016-04-14 22:46:33 ID:Mjg2ODEwN
※20
心配ありがとね
熊本市南区だけどこのへん震度6だったぜ
まだ余震あるけど人の被害はこのへんではないぽいぜ
棚倒れたり、食器が割れたりで惨事だけど暗いから明日の朝片付けようかと思ってるぜ
23:すかっと名無しさん 2016-04-14 22:51:30 ID:MjY5MTUyM
凄いいいお話を聞けることができました。ありがとうございます。
また8月くらいに読みたいです。
24:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:03:27 ID:MjczMjI0N
幾人か居る敬礼らしき顔文字の中、唯一正しい※7のみに返礼を送る∠( ̄ー ̄)
25:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:06:38 ID:NDIzMjIwM
地震、震源が浅いから最大震度の割りにマグニチュードが小さくて揺れの大きい範囲もそこまで広くはないようですね。とはいえ、家屋の倒壊や火災も起こってる模様、ガス漏れや漏電には十分注意して、現在停電してるならブレーカーを落として・・・って停電してるならこんなところ見てないですね。
暗いうちは安全なようなら動かずどうか寝てください。体力温存を。ではおやすみなさい。
26:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:26:53 ID:NTE1NDYyN
家の祖父の弟が、たしかビルマで戦死したとか。
こう言った方々の戦友だったのかもしれないなあ。
27:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:42:28 ID:NTIwNzg1N
爺さんたちに恥ずかしくないよう生きよう
まずは熊本の救援と復興だな!!
28:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:45:22 ID:MzYxMjYzM
もう亡くなられたが、大学の先生もビルマで戦っていたと聞いたわ。
もしかしたら同じ部隊だったのかもね。
29:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:51:30 ID:Mjc4MTc0M
うちの祖父はシベリアに抑留されてて昭和22年に帰ってきたっていう話だった。
話だった…というのは、祖父が全然その時の話をしなかったからで。
母や伯母、祖母からそう聞いていた。
祖父は米寿のお祝いの時、昔話をした。
ロシア兵がトラックの荷台を銃撃してきて、荷台に乗っていた兵隊が亡くなったけど自分は下の方にいたから助かったと。
祖父の口から戦争の話を聞いたのはその時だけだったな。
母や伯母や叔父叔母たちも祖父から戦争の話を聞いたことは殆どなかったって言ってた。
思い出したくない経験だったんだろうって今なら分かる。
30:すかっと名無しさん 2016-04-14 23:56:34 ID:NTE4Njg3O
仕事で戦争に2回行ったっておじいさまと関わった。
ひょうひょうと戦時中の国内のお話は聞いたけど戦地の話はない。
いろいろ聞きたいってアピールしてたら
「私は大変なことをしてしまった」って泣かれて聞けなくなった。
すごく良い人で家族にも愛されてる爺様なのに
そんな風に泣かせた自分が恥ずかしくなった。
同時に戦争って想像つかないほど大変な事態なんだって想像した。
爺様たちには悪いけど、戦後世代はもっと知らないといかんと思う。
私たちだけならず後世にも伝えないといけないんだ!と切実に思う。
31:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:19:28 ID:Mjc3NDg1M
※10
確かに辛い話はしないね

ただ、授業の一貫で「お爺さん達に戦争の話を聞こう」的な奴で、
当時フィリピンだったかな?そこの人達に何か教える仕事してたらしく、ほぼ戦ってなかったようで

「あん時皆でバナナ食ってうまかったーw」だの
「何々して楽しかったわw」
な話を友達一同の前でされたときはもうちょい重い話しろやジジイとは思ったよ

後の授業で聞いた話の発表する時の居たたまれなさったらもうね
うちの班だけ戦時中のほのぼのエピソードになったよ畜生
32:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:25:12 ID:NTUzNzY2O
この国のために戦われたすべての人に/)`;ω;´)

熊本の人、大丈夫か?
33:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:33:26 ID:MjkwMDQ5M
うちのひいじいさんは海軍の機関兵で乗っていた駆逐艦が魚雷で沈められたらしい。
真冬のことだったので部下や上官は寒さや機雷の誘爆で結構死んでしまったが、ひいじいさんはどうせ死ぬならと酒をありったけ飲んだ(上官にそれくらいにしとけと言われるほど)ためなんとか体温を保って帰ってこれたらしい。
その後酒で肝臓がやられて比較的早死にしてしまったらしい。らしいばっかで申し訳ない{(-_-)}
酒も適度な量が一番ってことですな。
34:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:37:37 ID:MzI2MjkzN
まさに命からがら…な状況からの生還と再会
人生はドラマだ!

ウチのジィ様。飯炊きが上手くて上官に気に入られて、徴兵されたけど戦地には行ってないそうだ。
「お前は専属の飯炊き!」の命令を受けずーっと飯炊き係。
ジィ様のジィ様より更に厳しかったバァ様が「自分の食うもん位自分で作れるようになれ!」と教育した当時としては珍しいひぃバァ様のおかげで私が存在するのだな…
35:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:39:41 ID:Mjk0MDg4N
私の叔父もシベリア抑留から帰還しました。
自宅に戻って私の母を見ての第一声が、「この子どこの子?」
出兵中に生まれた私の母がパタパタと走り回っているのを見て、妹とは思わなかったようです。

体の丈夫だった叔父が、シベリアで気管支喘息を患い、亡くなるまで大変辛そうでしたが戦時中の話しは1度もしてはくれませんでした。

会津の山奥で農業をしていた叔父が、体を壊すくらい過酷な状況だったんだと思うと、涙が出そうです。

そんな叔父も、英霊の皆様の元に旅立ちしばらくたちますが、今も母の実家には菊の御紋の盃が飾ってあります。
36:すかっと名無しさん 2016-04-15 00:40:05 ID:NTYyNTExM
仕立屋をしてた爺さんはシベリアでずっとコートを縫わされたらしい。
日本に帰ってきたら思い出すからと仕立屋をやめてしまった。
いったい何があったんだろうね。
私が生まれる前に死んじゃってるから知る術もないけどさ。
37:すかっと名無しさん 2016-04-15 01:10:44 ID:MzUyNzEwN
母方の実家にお盆に帰省した時に、じーちゃんが戦争の話をしてくれたな。
満州に行っていたそうで。切ない話と面白おかしい話を一つずつ教えてくれた。
いろいろあるけど印象に残っている話。
当時食料不足でアメリカ兵の所に潜入して食料をとってきた時。
チーズがあったそうなんだけど、それがどういう物か分からなかったので若い兵士に聞いてみたら「はっ!それは味付けバターであります!!」と言われた〜と笑ってたなぁ。
切ない話をしている時の目が、子供心に怖かったけど。もっと色々聞きたかったな。
38:すかっと名無しさん 2016-04-15 01:12:18 ID:MzE4MzcyN
長い歴史から見ればほんのひと時なんだろうけど、戦争のない平和な時代の日本に生まれて良かった。
今、怖いのは東海大地震いつ来るのか…(;´Д`)
そーっとプレート戻ってくれないかなぁ…
39:すかっと名無しさん 2016-04-15 02:36:39 ID:NTYzMzkwN
俺んちの田舎は呉
あの大和を作った都市だ
じいちゃんは戦時中造船工場にいたらしいが、何を造ってたかは黙したままだった
あれは黙秘してろって命令に従ってたんだろう
めちゃくちゃ遅くにできた孫の俺を凄く可愛がってくれたが、それはそれ、これはこれってことらしかった

唯一話してくれたのは、ヒロシマに原爆が落とされた後のこと
本当にちらっとだけど、忘れられずにいる
こうやって気楽にネットにつなげて発言出来ることのありがたさをしみじみかみしめてるよ

この国のために戦って散った人に、敬意を込めて
∠( ̄^ ̄)

そして、火の国の振動が早くおさまりますように
40:すかっと名無しさん 2016-04-15 03:48:39 ID:MzE5MzQxM
わたしの祖父は2人ともシベリアに2年抑留されていた。
片方はわたしが幼い頃になくなったから戦争に関する話は全く聞けなかったけど、90歳で健在の方も、今年になるまで1度も当時の話をしてくれたことがなかった。
伝えなければって想いよりも、思い出すのが辛い程の経験だったんだろう。
41:すかっと名無しさん 2016-04-15 03:54:20 ID:NTUyMTQ2M
亡くなった祖父も戦争へ行ったな。
手のひら打たれて中指が他の指と同じ長さになったとかなんとか。
42:すかっと名無しさん 2016-04-15 06:36:57 ID:MTI0MjgxN
タグにうるっときてしまった(・_・、)
43:すかっと名無しさん 2016-04-15 06:52:20 ID:MTUxNzQ5M
こういう話観ると「神も粋な計らいをするものだな」と思う。
44:すかっと名無しさん 2016-04-15 07:51:57 ID:Mjk3MTU5N
縁というのは本当に有るものなんだねぇ。
45:すかっと名無しさん 2016-04-15 09:07:38 ID:NDUzMjM0M
※39さん
自分も呉の人間。
母方の爺様は工場で色々作ってたって聞いた。
大和を作ってるの、仲間とこっそりのぞきに行ったんだって。

父方の爺様はフィリピンで、親父様の顔を見ないままあちらに旅立った。

他にも入地被曝した大叔父もいたな、顔は知らないけど。

今の平和を感謝して、地震の後片付けを考えようと思ったよ。
46:すかっと名無しさん 2016-04-15 09:08:07 ID:MTI0MjgxN
じいちゃんがシベリア抑留体験者だったけど、仲間たちと協力して何とか乗りきったって
種芋を渡されて農作業するように命じられたから、芋を沢山植えられるように目が出る部分ごとに小さく切ったんだ
そしたらソ連兵が「何をしてるんだ」って聞いてくるから理由を説明すると、「すげえ!目から鱗!」みたいに超はしゃいでたんだって
どうやらそのソ連兵、芋を育てるコツを知らなかったらしい

よく「俺はソ連に農業指導してやったんだw」ってじいちゃんよく言ってたなー
47:すかっと名無しさん 2016-04-15 09:25:37 ID:MjgwMzczN
※31
ほのぼのエピソードの方が貴重な話な気もするな。
目の前に黄泉の国が口を開けて待っているような日常の中で
それでも 日々ささやかな楽しみを持つことで
正気を保って過ごされてきたのだから。

そういえば うちの祖父(故人)も辛い話はしなかったな。

義母は当時女学校生で、学徒なんとか(動員とは言ってなかった)で
軍需工場で働いていたそうな。
たび重なる空襲からなんとか無事に逃げ伸びてたのに、
慣れない工作機械でケガをして後遺症が残ってしまったとのこと。
当時は 障碍があると結婚なんて望めないって時代だったから
手に職をつけて一生自力で食べていこうって頑張ってたら
就職先で義父に出会ったと。
『あの時は 悪い事ばかりだなあって悲観してたけど
生きてれば良い事もあるものよねぇ』って 義母は笑ってた。
そんな「銃後の戦争」もあったことも 記憶にとどめておいてほしい。
48:すかっと名無しさん 2016-04-15 09:48:17 ID:MzEzMTM5N
ビルマの竪琴観たくなったわ
ありゃ泣ける
49:すかっと名無しさん 2016-04-15 11:53:33 ID:MzA1MjkzN
ウチの祖父は南島の方としか聞いたことがないなぁ、当時の大阪の訓練所のなかの問題児ばっか集めた隊にいたってきいた、終戦してもなかなか帰れず食料もなくって、トゲだらけで取っ掛かりもないヤシの木を力ずくで登って実を取って食べたとか、上官が最悪で終戦の知らせが入ったときに全員自害しろとか言ったからフルボッコにしたとか、必死こいて取ってきた木の実を渡さないと撃つぞとか言ったからまたフルボッコにしたとか。その上官は結局帰国できなかったとか…
50:すかっと名無しさん 2016-04-15 12:32:12 ID:NTI5ODQ4O
背筋伸びるわ。
51:すかっと名無しさん 2016-04-15 12:43:22 ID:MzA3MTkzO
いつもふざけてばかりのこの※欄に、
こんなに真面目なコメが集中して、
やっぱここの住人達はすげーな!
52:すかっと名無しさん 2016-04-15 13:23:02 ID:MzE4NjcyM
うちの母方の祖父も戦地にいたらしいけど何も話してくれなかったな。
何で話さないか尋ねたらボソッと
「『銃を持って敵を倒す事がお国のため』と思って戦ったのに、今は学校で『日本は悪い事をした』と教えている。まるで俺達はサツ人者扱いだ。何のために俺達はあんな思いをしたと思ってるんだ?そんなの話せるわけないじゃないか」
みたいな事を言われた。
それからは聞けなかったな。
53:すかっと名無しさん 2016-04-15 13:38:04 ID:NDUzMTk4N
映 画 化 し て く れ
54:すかっと名無しさん 2016-04-15 13:47:26 ID:Mzg3MTY2M
祖父の任地が硫黄島でした。
祖父が本国に帰るのに乗った補給船が最後の便だったそうです。
ひとつ何かが変わってたら、もしかすると私はこの世には生まれてこなかったかもしれません。
55:すかっと名無しさん 2016-04-15 13:59:03 ID:MzA4MDQzM
イイネ!ボタンがあったら100回くらい押す。
56:すかっと名無しさん 2016-04-15 14:08:16 ID:MTU1OTI4M
あいつの分も、あいつの分もと
生きる気持ちはわかるまい
57:すかっと名無しさん 2016-04-15 14:20:56 ID:NTU4NzkwN
うちの祖父は兄たち二人が大陸で従軍していてついに自分にも招集がかかり、
覚悟を決めて東北の山奥から横須賀まで出てきたら、そこで終戦の詔を聞いたそうだ。
手先が器用で酒好きで誰にでも明るく接する人気者だった。
あちらで元気にしてるかなあ…
58:すかっと名無しさん 2016-04-15 14:27:19 ID:NDYwNDg1M
うちのじいさんは、私とあんまり話してくれなかった。遠方に住んでいる外孫になんて興味ないのかなって思ってたんだ。
じいさんが亡くなってから、ばあさんに「じいさんと話した記憶ないや」って云ったら、「じいさん、人見知りだったからねー」って云われた。衝撃的だった。そのじいさんの人見知りはトーチャンに遺伝して、しっかり私も受け継いでるぞ。
59:すかっと名無しさん 2016-04-15 14:37:17 ID:NjkyNTAwO
うちの祖父は台北大学でマラリアの研究をしていたと聞いた。祖父の叔父が研究員で祖父を呼んだらしい。他にも軍医をしていたらしいと祖母に聞いたが、医師免許は持っていなかったはずなので衛生兵の間違いかもしれない。
祖父は父親が牧師で、戦中に牢獄に入れられ病気になり死亡していたらしい。そのせいか戦争のことなんかほとんどしゃべらなかったよ。なくなった父親のこともね。本人は倒れるまで教会にかよっていた真面目なメゾジストだったようだけど。本当は祖父は牧師になりたかったんじゃないかなぁと思ってる。でも時代が許さなかったんだろうと。
戦争はいろいろなものを奪うね。
祖母はサハリン生まれのサハリン育ちで戦後日本に帰国するのに苦労したと聞いている。

熊本の皆さんが一日でも早く安心して日々を送れますように。
60:すかっと名無しさん 2016-04-15 14:37:38 ID:NDUzMzAzO
父が祖父を嫌ってる節があったからあまり話を聞いたことがないな
ただ元々警察官で部隊を率いる立場だったこと、武道の師範だったこと、敗戦のあとはアルコール依存症になり早世したことしか知らない
物心ついた頃にはアルコール依存になった祖父しか知らないせいか、父はアルコールを嫌悪している
本当はどんな人だったんだろう
61:すかっと名無しさん 2016-04-15 15:13:07 ID:NTU3MzI5N
ウチのじーさんも戦争の事は何もしゃべってくれなかったな
特攻隊の予備員?で戦争が長引いていたら特攻していただろう、としか聞いていない

じーさんの本当の誕生日は4/29だったが、長い間4/30ということにしていた
なんでも自分が天皇陛下と同じ誕生日なんて恐れ多い、という理由から。
戦争の事は教えてくれなかったが、昔の人の天皇陛下への思いは伝わったよ
62:すかっと名無しさん 2016-04-15 17:35:31 ID:MTI1NTY3N
じいちゃんが7人兄弟の長男で体が弱くて徴兵は免れたけど、次男と三男、四男が徴兵され、そのまま帰ってこなかったそう。
長男のくせにお国のためになれないばかりか、弟たちの未来を無くしてしまったとお盆の度に仏間で泣くじいちゃんが切なかった。
63:すかっと名無しさん 2016-04-15 17:43:12 ID:NTEwNTk3M
>>祖父ばかりか孫の私までこのおじいさんに救っていただいて本当の意味で恩人です。

投稿者様の御祖父様がしんがりを務めたからこそ小隊長以下の隊の命を救ったという側面もあるかと

そしてまた、そんな方々が戦後を担われたおかげで今の日本がある事を思うと涙を禁じ得ません
64:すかっと名無しさん 2016-04-15 18:04:49 ID:Mzg3MTY3M
報告者の祖父は自分の体験談を武勇伝としてじゃなく笑い話として話したんだろうなぁ
だからこそ報告者もおじいさんをドジなおじいさんだと思ってたわけで。そんなところもかっこいい
65:すかっと名無しさん 2016-04-15 18:40:54 ID:Mjg4NTM3M
皆さん、おじい様が戦地に行かれたんだなあ。
私は恥かきっ子なので父親。
戦友の方に特別な思いを持っているのは感じていました。
戦争体験を聞いたのは只一度。三島由紀夫の時の介錯の仕方でした。
戦争は酷いです。
家族や戦友のために戦えても、政治家のためには絶対戦えません。
66:すかっと名無しさん 2016-04-15 18:59:01 ID:MzA3MTg5M
おお 不思議と今背が伸びていた。
(`・ω・´)>
67:すかっと名無しさん 2016-04-15 19:19:10 ID:MTI0Mjc5M
俺の祖父は満州の軍にいたけど、終戦から何年も経ってからようやく帰って来られたらしい。
長く向こうにいたせいか、中国語がペラペラだったそうだ。
68:すかっと名無しさん 2016-04-15 20:19:27 ID:MzA5MDk4M
なんだこの泣けるコメ欄は。
69:すかっと名無しさん 2016-04-15 21:28:57 ID:NDYwNDk0N
※22
せいしょこさん、こと清正公の御加護のあらん事を。
70:すかっと名無しさん 2016-04-16 00:15:36 ID:Mjg2NDQyN
素敵な※欄だ
母方の祖母(故人)の弟が、20か21だかで南方の海で乗艦が撃沈され亡くなられたそうだ。
当然遺骨など帰ってこない。俺の母が生まれる前のことで、独身だったんだと。
おばあちゃん子だった俺だが、その話を聞いた子供の頃には特に何も感じなかった。
今頃になって、現在の自分の半分も生きられずに命を落とされた大叔父のことを思うと胸がしめつけられそうだ。
今度海へ行くときには、何か供養になるものを持っていこう。
71:すかっと名無しさん 2016-04-16 08:32:19 ID:Mjk5NzYzN
うちの曽祖父は戦前から写真屋兼フリーカメラマンみたいなもので、世界中を放浪していた。(ニューヨークマンハッタンやハワイ、満州、パリの写真が残っている)戦時中は前半は南方の島々に渡っては、原住民や軍人の記念写真や報道写真を撮っていた。というのは表向きで、どうも裏では軍人の内情を集めて、諜報機関に情報を渡していたらしい。そのせいか召集されることもなく、衣食住も不自由なく、戦後は印刷所を立ち上げて、40年くらい前に88で死んだ。
72:すかっと名無しさん 2016-04-16 09:27:40 ID:NDkxMTgzO
うちは父方の祖父が戦地に行ったそうだけど、やっぱりあまりその話をしたがらなかったって聞いた。
私が生まれる前に亡くなったから私はあってないけど、あっててもやっぱり聞いてもその話したがらなかったんだろうな。
73:すかっと名無しさん 2016-04-16 15:52:26 ID:MzM2MDg5M
うちの曽祖父も徴兵されたけど、広島にいたらしい。そこで原爆が投下されたけど、たまたま軍の施設の地下にいたから無事に帰ってこれたそうな。でも私が生まれるだいぶ前に白血病か何かで早くに亡くなったらしい。
軍の施設の地下って何があったんだろー?
74:すかっと名無しさん 2016-04-16 15:53:44 ID:MzA0OTUzO
スレとコメ欄の両方で目から汗がああぁぁぁ…
うちの祖父は満州を経て皇居周辺の護衛をしてたそうな。大伯父は大戦の開戦直後に南方で…。
さて、GWは墓参りに行くとしますかね。
75:すかっと名無しさん 2016-04-16 17:22:42 ID:MzI3NjYxM
1945年8月、当時16歳だった父は原爆投下の1週間後、
佐賀県から親戚がいた長崎へ探しに行ったそうです。
当時の一般人が放射線とか放射能なんて知る由もなく、
ただ ただ 親戚の無事を祈り 探しに行ったんです。
 ガレキしかない廃墟と化した町で、父は何を見たのだろう。
父は当時の事を話したがりませんでした。
  言ったのは 一言 「・・・ひどかった...」  それだけ。
父は被爆者健康手帳を持っていません。
申請の条件を満たしてなかったらしいのです。
 死体の処理及び救護にあたった者等で
 (救護施設などで10人以上(1日当たり))...
父は親戚を探すのが目的で行ったので、遺体の処理などしてない。 
でも被爆地へ入ったので 被爆してると思う。

今から33年前父は癌で他界しました。
私は今年父の年齢より1年長く生きました。 あと何年 生きられるでしょうか。
年老いた母は、昔 懐かしい父との思い出話を、時々つぶやいています
76:すかっと名無しさん 2016-04-16 21:14:05 ID:NDkxMTk0N
祖父も戦時中満州で列車の運転していた。
シベリアで拘留された時は悲惨で、トラックの荷台にぎゅうぎゅうに乗せられ運ばれたそうだ。イナゴがたくさん飛んでいた。過酷な労働環境の中何人も仲間が目の前でどんどん死んでいったらしい。
食べ物もあまり与えられず、木の根や野犬などをとって食べて飢えを凌いでいたときいた。
労働に加え、仲間の死体を埋めなければならなくてひたすら土を掘っていたらしい。
日本に帰ってくるときには本当に少ない人数になっていたそうだ。
小さな頃に1、2回話してくれただけの戦争の話だったけれど、今もすごく印象に残っている。
77:すかっと名無しさん 2016-04-17 03:36:55 ID:NjAxODQxM
ウチの母方のじいちゃんは都内で主計やってたからあんまりいいエピソードないな。
食糧パクって周りに配ってたらしいし。
おかげで家系と近所に飢死した人がいない。
とりあえずモテたそうだ。
父方のじいちゃんに至っては軍需工場経営してたから赤紙すらもらってない。
78:すかっと名無しさん 2016-04-17 03:36:56 ID:NDM3OTU3O
祖父母は全く戦争のことを話さない。
母もほぼ聞いたことがないらしい。
ただ、テレビでやってた戦争映画を見て、戦争はこんなにやさしいものじゃない、もっと苦しい、と言っていたそうで、
ずっと聞くに聞けない
79:すかっと名無しさん 2016-04-17 16:59:43 ID:NjI4MTM5N
※39さん
うちの祖父は大和の機関士でした。
正確に言うと軍人ではなく、軍属。
もしかしたらあなたの御祖父様が製造に携わった大和の心臓を、わたしの祖父が動かしていたのかも知れませんね。
80:すかっと名無しさん 2016-04-18 07:58:06 ID:NjYyNjE1N
ありがとう
81:すかっと名無しさん 2016-04-18 23:58:24 ID:Mzc5ODY1N
良い話でした
命をかけて闘ってくれた方たちに感謝します
82:すかっと名無しさん 2016-04-20 11:11:08 ID:MzU3Nzk1N
96になる祖父はもう痴呆で話せないけれど、ガダルカナルで闘ったらしい。
なんでもよくたべる祖父は、ほとんどの仲間は餓死だったとうなだれるようにして言っていた。食べれるものは何でも食べた。食えそうにないものだって食べた。正直、人以外ならみな食べたと。だから好き嫌いなんてするわけないと言っていたよ。(そのわりにこれマズイぞおい!とかは言うww)
もう呆けてしまったのに、今でもお盆になると亡くなった戦友が見えるのか、生き残ってごめんと涙を流す。戦争なんてしちゃいけないね、本当に。
83:すかっと名無しさん 2016-04-20 13:04:13 ID:MTY3NTUyO
祖母の話。曾祖父は出兵する時、実家に着ていた服を送ったんだけど、ポケットに隠すように「北」と書いた紙切れが入っていたんだって。それは曾祖父が家族に自分の配属さきの戦地を知らせるメッセージだった。本当は軍事機密だから駄目なんだけど、当時は南(ビルマ)は激戦区で生きて帰るのが難しかったそうだから、何とか生存の望みのある北=大陸だと伝えたかったのだとか。その後シベリア抑留されたけど。とにかく悲しい時代だった。
84:すかっと名無しさん 2016-04-20 18:28:56 ID:NjA0Njg4M
祖父は終戦直前は満州にいて 戦後もしばらく帰れなかったそうだ。
でも実家は長崎 こちらにいても危なかったのかも
祖母は被爆者でした。戦争はいやだね。
そして 熊本の皆さん 長崎からですが ボランティア等手伝えることがあったら、すぐに飛んでいきたいます
お辛いでしょうが 頑張ってください
85:すかっと名無しさん 2016-04-21 00:51:26 ID:NjQ0Njc5M
※82のお祖父様
生き残ってくれて、ありがとう
86:すかっと名無しさん 2016-04-21 19:14:00 ID:NDQ3MzM4O
宮崎の都城在住。
熊本、大分で震度5以上の地震がある時はココも揺れて数分ごとに通知が来るから不安になる。
今日から九州は雨続きで熊本県、大分県とかでは土砂崩れに地震とか怖いけど、九州全体で頑張ろう!
87:すかっと名無しさん 2016-05-08 07:14:45 ID:MjQ1NTkyM
本編は勿論※欄でのどがぐっと詰まった(この表現が正しいかは分からないが)

今の平和を作ってくれた自分の祖父母含め大変な時代を過ごされた方々に感謝と敬意を!
本当にありがとうございます
88:すかっと名無しさん 2016-05-09 01:05:56 ID:MzM4MDM0N
※45&79

※39です
そうか、じーちゃんと間接的にでもかかわった人がいたんだな
あの時代、じーちゃんと同じ場所にいた人(の孫)がいたことに、少し感動している

じーちゃんが黙したまま逝ったのは、黙秘の命令に従ってたと同時に、
艦と共にたくさんの命が坊ケ崎沖に沈んでいったからかもと数日前
ふと思った
当時のじーちゃんは己の務めを果たしてただけだったろうが、
だからこそ、孫の俺にすら語りたくなかったかもしれない

※79の祖父上はご無事だったのだろうか
89:すかっと名無しさん 2016-05-09 02:31:36 ID:NjQyODkwM
仕事で知り合ったおじいちゃんが、シベリアに行っていたそうな。
すごく寒くて、朝目が覚めると隣の奴が凍死してたとかザラだったって。
※欄でどなたかも仰ってたけど、穴を年中掘ってたって言ってた。でも、土も凍ってるから深く掘れないんだよーって。
「おれはシベリア帰りだから暑いのが苦手なんだよ」と冬でも室内でランニングだったりして困ったw
でも息子さん(私より随分年上)にシベリアのことを話したら「おれは戦争の話なんて一度もきいたことないよ」って驚かれた。
やっぱり息子にははなしにくいんだろうなぁ、身内じゃない小娘にだからいえるんだろうなぁってちょっと切なくなった。
90:すかっと名無しさん 2016-05-16 17:28:53 ID:MTU2NTMzM
うちの亡くなった祖父もシベリア抑留2年のあと帰ってきた。
召集前は時計屋だったので、時計の修理で重宝された、と聞いた。
それ以外のことは一切話してくれなかったけどな。
91:すかっと名無しさん 2016-06-06 15:43:46 ID:MTE1NDkzM
退職した恩師から聞いた話。
先生は海軍士官の娘で、1男10女の末っ子。昭和16年に先生が生まれたとき、先生のお母さんは姑から「こんなに産んでしょうもない…」と言われたらしい。
父親はずっと出征していて、先生は写真でしか父親の顔を知らなかった。海軍士官の軍服を着けた、立派な姿の写真だったらしい。
終戦後の昭和21年、ようやく父親は帰ってきたが、ガリガリに痩せて、軍服はぼろぼろ、汚れて真っ黒な顔の異臭漂う姿に、当時5歳の先生は「変なおっちゃんが来た!」と号泣して、ひっくり返ってしまったらしい。
以来、先生はトラウマから、どうしても父親を「お父さん」と呼べなくなってしまい、呼ぼうとしても声がでなかった、と。
奉職して、遠い赴任先で寮生活を送ることになり、実家と距離をおいたことで、ようやく心に余裕が出来て「お父さん」と呼べるようになったそうだ。
92:すかっと名無しさん 2016-06-19 17:39:05 ID:Njc0MDk2N
私が生まれるだいぶ前に亡くなったので詳しいことは知らないのだが、曽祖父も南方(恐らくガダルカナル辺り?)帰りだったそうだ。
曽祖父も現地でのことはほとんど話したがらなかったようだが、祖母(曽祖父の娘)やその兄弟は、帰ってきてからは別人のようだったと、ひどく殴られることも多かったと零していたらしい。
母が祖母の末の弟に聞いたところによると、曽祖父が一度だけ、現地であまりの飢えに人肉を口にしたことがあるようなことを言ったらしい。
もう本人に確認することは出来ないし、聞くのも憚られるようなことだが非常に衝撃を受けたのを覚えています。
93:すかっと名無しさん 2016-06-21 17:10:11 ID:NDQ2ODM1M
※92
やなせたかしさんが
「本当に飢えると、人肉だって食べようかという気になるんですよ。想像できますか?戦争とはそういうものなんです」みたいなことを言ってた。
アンパンマンを作ったのは戦争の影響もあったみたい。
94:すかっと名無しさん 2016-07-08 14:57:52 ID:MjQ1NTkxO
うちのじいさんがいた部隊は、撤退時現地のビルマ人に無理矢理道案内させた上、口封じのため最後に射殺したらしい。
じいさんたまに「少尉どのー」ってうなされてたわ。
そういう話もあるんだってことで。
95:すかっと名無しさん 2016-07-19 16:37:19 ID:NTgzMjkzN
小学生の時、戦争の話を聞いて毎日一人ずつ発表する、という課題があった
祖母に電話で聞いてみた(毎晩電話してた)ら、いつも穏やかで優しくて色々教えてくれる祖母が
恐ろしい恐ろしい、思い出したくない
としか言ってくれなかった
当時は課題ができないと勝手なこと思ったけど、
今は「それが戦争なんだ」って思う
言ってくれなかったんじゃなくて、言えなかったんだって思う
96:すかっと名無しさん 2016-08-01 20:06:12 ID:MTc4OTQwM
「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言われた理由は、通州事件のような目に遭っていたからだって知っている人の方が少なくなってしまったからなぁ。
コメントの反映に時間がかかる場合があります。

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